そんなに遠くない昔、1950年代の日本には、コウノトリがたくさん住んでいた。
そして、コウノトリが少なくなったのは、たくさん強引に殺したからだ。 
そんな話を書こうと思う。

まず、コウノトリというのは絶滅の危機にある。
そして、でかい。外観は、鶴とそっくりなようだ。
日本によくいるアオサギと一緒にいる写真があるが、それをみてもよくわかる。


こんな大きな鳥が空を飛んでいるなんて、どんな雄大な感じがしただろう。
それが、田舎でもなく普通の街をとんでいて、近くの田んぼや木の上にとまっているのだ。
きっと、トキも同じように飛んでいた時代もあっただろう。
かつての日本には、ダイナミックな鳥が身近な空を飛んでいたのだ。

 ぼくが1980年ころに聞いた話を書く。
小学生の僕に話をしてくれたのは、校長先生だった。
なんでも、校長先生が若いころ、仁徳天皇陵にコウノトリの巣がいっぱいあったそうだ。
そして、あまりにコウノトリの巣がたくさんあり、コウノトリも沢山いるので糞の被害が大きい。
コウノトリの糞で、仁徳天皇陵にある松の木がたくさん枯れたり、枯れそうになったそうだ。

そこで、たくさんの人たちが集まり、コウノトリの巣を一つ残らず潰したそうである。
校長先生いわく、「全部つぶしてまわった。本当に、一つ残らず」
そう言っていたから、本当に徹底的に潰したのであろう。
皆が皆、手に棒などを持ち、巣を潰し卵があれば落とし、割り、巣と卵をシラミ潰しに潰していったと。

 そしてしばらくすると、
「コウノトリが全くいなくなってしまった。」と言っていた。

子供ながらに、「そら、当然や。住むとこなくなったら、誰がおるんや。」
と思っていた。しかし、潰して回ったほうは、あまりそこまで、つまりいなくなるというところまで考えていなかっただろうし、絶滅の危機に瀕するとは思ってもいなかったに違いない。

だからといって、「コウノトリが絶滅しない程度に」とか、「コウノトリの新しいすみかを作ろう」とかも考えるわけでない。ただ、とにかく「松の木が枯れないように巣を潰せば良い」ということだけで行動していたのだと思う。

Wikipediaによれば、1956年にはコウノトリは20羽にまで減ったようだ。
校長先生の話から推測すると、校長先生が巣を潰して回ったのは1950年前後だと思う。
1980年当時、校長先生の年齢を58歳と仮定して年代を逆算していくと、おそらく戦後1945年以降であって1950年前後ではないかな、と思う。
多少の年代のずれはあっても、あっという間にコウノトリが日本の空からいなくなったことは間違いない。

コウノトリがいなくなった理由もWikipediaによれば、以下のように書かれている。
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日本列島にはかつて
留鳥としてコウノトリが普通に棲息していたが、明治期以後の乱獲や巣を架ける木の伐採などにより棲息環境が悪化、ときには、太平洋戦争前後の食料不足の中で食用にされたこともあり[3] 、1956年には20羽にまで減少してしまった。そのため、コウノトリは同年に国の特別天然記念物に指定された。ちなみにこのコウノトリの減少の原因には化学農薬の使用や減反政策がよく取り上げられるが、日本で農薬の使用が一般的に行われるようになったのは1950年代以降、減反政策は1970年代以降の出来事であるため時間的にはどちらも主因と断定しにくく、複合的な原因により生活環境が失われたと考えられる。
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僕なりに、コウノトリがいなくなった原因を推測してみた。上記のWikipediaには書かれていない原因がある。
それは、
「ある時期を境に、自然や動物のことなど、どうでもよくなった。」からではないかと思う。
そう、「考え方」がかわったことが原因で、日本人の脳みそからは動物を守るという考えはなくなった。

ある時期、というのは少なくとも江戸時代が終わってから。
明治か、大正時代かはわからないが、多くの日本人にとって、動植物など心配する対象ではなくなったのだ。
これは、コウノトリだけでなくトキ、狼、カワウソ、全てに当てはまると思う。

よく化学肥料が原因で、、とかトキの頃にもいわれているが、それ以前に劇的に減っていたのだろう。
化学肥料というのは、劇的に動物がいなくなってから登場した、トドメ役みたいなものだろう。

江戸時代には、自然を大事にして、動植物と共存、という考え方があったかもしれない。
しかしある時期をさかいに、その考えは一気に後退した。
巣を潰す、という行為は、手作業なので、江戸時代の人間にもたやすく出来たはずだ。

僕がそう考える理由の一つは、校長先生の話だ。
「徹底的に、巣を潰す。松枯れを防ぐために。」という話。
これは、自然を大切にするというより、松の木が「仁徳天皇陵」にあったから、かもしれない。
そして、堺市にはまだまだ他に大きな古墳があるので、違う古墳でも同じ事が行われたと思うほうが自然だ。
松が大事というよりも、「誰かがしようと言っているから皆でやる」、のような感じではなかったろうか。

「古墳だから大事にされる」という訳ではなかったようで、昭和時代になってから、いくつかの古墳が取り壊されて、畑や住宅地になっている。
古墳というものは、少なくとも1000年の歴史を持っているので、その1000年の歴史がここ数十年でぶっ潰された。そんな、意識の違いが江戸時代以降にあらわれてきたのだと思う。

 
   長くなるので、続きをまた書きます。